悦嗣はため息をついた――まったく、どいつもこいつも。
「わかったよ。この二曲だな?」
 そしてわくわくしている自分も、気後れしている自分も。

 夜、マンションに戻ってPCのメールをチェックする。ここ数日開けていなかったので、ダイレクトも合わせて結構な数のメールが入っていた。その中に曽和英介の名前を見つけた。悦嗣はそれをクリックした。彼からのメールは約一ヶ月ぶりだ。
〝久しぶり。元気にやってるか? こっちは演奏会続きで忙しい。移動も多くて…?
 英介の口調そのままの文面を読み進む。彼の近況が目に浮んだ。どんなに忙しい毎日であっても保濕精華液、きっと楽しそうに演奏しているに違いない。英介は本当にチェロが好きで、単純な音出し練習でさえ嫌がらずにこなしていた――「音がきれいに鳴るのが、嬉しいんだ」と。
 目元に笑みが浮ぶのを、悦嗣になった。オーディションの演奏は、すでに語り草だ。主席団員以外は聴けないきまりなのが、本当に残念だよ。正式入団は来年早々だから、それまでオフを決め込んだらしい。日本へ行くって言ってたよ?
「もう来てんだよ、エースケ」
 読み終わったメールを閉じながら、独りごちた。
 昼間、仕事道具を取りに戻った時に持ち帰った楽譜『ヴォカリーズ』と『なつかしい土地の思い出』が、机の上で悦嗣を誘っている。手にとって開いた。ラフマニノフもチャイコフスキーも好きな作曲家だった。コンクールや試験向きという事もあって、よく弾いたし、弾かされた。
 立浪教授から日程の連絡が入り、さく也が了解したので、ウィーンに帰る前日の午後に月島芸大の大講義室での模範演奏が決まった。
 この状況を知ったら英介は、
「やっぱり、弾きたくなっただろう?」
と無敵の笑顔で言うに違いない。そして反論出来ない自分の姿を、容易に想像できた。
 中原さく也とは、二日後の夜に最初の音合わせを予定している。
 悦嗣の指はすでに臨戦態勢だ。あの時の吐き気にも似た緊張感ではなく、陶然となる瞬間だけを思い出している。
 あきらかに半年前とは違う。音を知ってしまった指は、悦嗣の感情などお構いなしだった。
「まったく…仕様がないな」
 その独り言は、何に対してなのか。零れた言葉は、静まり返った部屋の中に飲み込まれた。

 ぽたり…と、手首を霞めて水滴が落ちた。悦嗣には自覚がなかった。その水滴の出所が、自分の目であることに。顔を上げて頬をそれがつたった時、初めて涙だということに気が付いた。袖口で拭う。指が微かに震えていた。
 演奏会でもなんでもない。場所は実家のレッスン室で、ピアノは国産。ヴァイオリニストとピアニストの二人きり、そしてただの音合わせ練習――なのに、この涙はなんだろう。
 さく也の智能皮膚管理方を見ると、ペグで弦を調整していた。淡々としたその表情に、無意識に高揚した悦嗣の涙腺は、ようやく落ち着いた。それでも耳には先ほどまでの『ヴォカリーズ』の余韻が残る。
――なんて音…出しやがるんだ
 緩急と強弱のタイミングを、簡単なデモ?プレイで打ち合わせた後、まず『ヴォカリーズ』から通した。
 半年ぶりに聴いた中原さく也の音。アンサンブルのそれではなく、ソリストとしての音が悦嗣を圧倒した。感傷的なヴォカリーズの旋律をより一層に際立たせて、悦嗣を包み込む。
「…ンポ、遅すぎた」
 頁を戻しながら、さく也が何かを呟いた。やっと悦嗣の意識は『今』に戻る。
「え、あ、何だっけ?」
「粘り過ぎたかも知れない。重い感じ、しなかったか?」
 楽譜から目を外して、彼が悦嗣を見た。その目が少し見開かれる。「はっ」と悦嗣は目をぬぐう。左目の端に、涙がまだ残っていた。
「…そうだな、も少しあっさり弾いてくれ。俺の涙腺が緩む」
 言い訳しても仕方ない。これが英介なら、さり気なく突っ込んでくれるところなのだが――「もっと泣いてくれていいんだよ」とか「エツにしては殊勝な言葉だな」とかなんとか――、さく也は何も言わないタイプな上に、間が中途半端に開いて、悦嗣の言葉は置き去りにされた。
「じゃあ、もう一度、通していいかな」
 彼の声にも変化はなかった。ただ譜面台に向き直る際の横顔に赤みが差し、再度通された『ヴォカリーズ』は、思った以上に速いテンポで始まった。その音はまるで彼の照れを代弁しているかのように、軽やかだった。しかしそれも最初だけで、曲が進むにつれて冷静さを取り戻したさく也の弓は、速度も安定し本来の音を紡ぎだす。そして悦嗣もようやく、演奏者としての自分を取り戻すことが出来た。
 続けて『なつかしい土地の思い出 第二曲スケルツォ』を通す。打って変わっての軽快なアレグロに、悦嗣の指は緊張した。引き込まれる隙を与えられない。どちらかというと速い曲調が得意な悦嗣には、この曲は弾きやすいし心地よい。
「ここのピアノは、子供も弾きやすいようにハンマー軽め保濕針にしてるから、ちょっと走りがちになるんだけど、入りはあれくらいで良かったのか?」
 悦嗣はハ短調のスケールを弾いて聴かせた。母の好みで柔らかい音がする。
「良いと思ったけど。中間部のレガートをあまり遅くしたくないから、あれぐらいのほうが対比が出て面白い。あんたは速い曲の方が得意なんだな?」
「性格がせっかちだからな、次の音を待ちきれないんだ。それにおまえと演るなら、アレグロかプレストのがいいよ。緩い曲は聴きこんじまって、あのザマだ。ああ、だからってヴォカリーズはあまり速くするなよ。さっきは、も少しあっさり弾いてくれって言ったけど、最初の方が音にあってるし、気持ちよさそうだった」
「あれは…」